赤パン帳 (ΘェΘ)

ニッポンセイカツ はじまり、はじまり

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共同幻想論 規範論

規範論
抽象的なルールから、宗教や法律ができてきて、そしてそういったルールが破られたときには罰がある。
罰も、破った人を罰するのか、破る行為自体を罰して破った本人を救済するか。
これはいまでも続いている問題にも思える。
たとえば殺人を犯した人に対し、罰として共同体から排除されるか、もしくは反省させて本人を救済するか。
懺悔をすれば罪を洗い流してもらえる様な宗教では「道徳的に」救済するべきと考えられるだろうし、人の命を奪ったものは救済する価値もないと考えられるかもしれない。
宗教や神話のレベルでいえば、神の助けをもって清らかになるために神社や教会なんかを作って、立派であればある程よい、とみなされる。
あともう一つ問題は、ルールや罰は誰のためにあるのか。
共同体の平和のためなのはいいけど、権力をもった層の権力を維持するためのものでもあるのでは?
イタリアでいえばベルルスコーニをメディア上で批判することは批判する人のキャリアにとって非常に危険なことだけど、これは明らかに彼の権力を維持するためで、それでもイタリア政府が国内外でイタリアには自由なジャーナリズムが存在していると強調したいのは我々は「批判者に叫ばしておく余裕がある」と見せたいから、といった感じですね。

(でもイタリアの場合、ベルルスコーニという人物は本当のところはシステムの一部でしかないのに、彼がいなくなればイタリアは住みやすい国になる、と勘違いしている人が多い。
このシステムの根源はテレビや新聞といったメディアだと思う、けどこれはまた次回)

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